10月26日(水)
一昨日の誕生日は己の罪故に、大いなるストラグルの中にいた。
わたしは己の欲、罪故に人を裏切り、罪を犯そうとしていた。否、既に罪を犯し、更なる罪を重ねようとしていた。
そして、大いなる不安と動揺に苛まれた。
「お前はこのまま罪を犯し続けるのか?お前が黙っていれば誰も知らず、ことは済むかも知れない。しかし本当にそれで良いのか?ことあるごとにお前がした悪時は頭をもたげて心の底から沸き起こり、生涯お前を苦しめるだろう。」
一昨日は一日、ズートそうした想いに苦しめられた。それは良心の呵責ではない。それは自分の心の内から湧き上がる物だが、これは神への怖れから来るものである事に気付いた。
元来、相当の悪で、これごときのこと等気にする男ではなかった。
ところが、わたしは変わった。わたしが自身で変わった訳ではない。では、どういうことか?
わたしは神と共に生きる。彼の子として生きると誓った。そしてその契約を確かにした。
その後、わたしには神の祝福が訪れ続け、奇蹟が訪れ続けた。すべてが順調に、自分の想い以上のものが訪れ適い続けた。
自分が行っているのに、行っているのは自分ではない。やること成すことが、すべて旨く行く。そのようなことが私の身に現実に起こっている。
平穏と至福の中で、まるで夢の中を歩いているような心地の
毎日。
それは、もうわたしは約束の地カナンに足を踏み入れ、御国に入っていると想わせるものだった。
それを今回の罪で汚し壊して良いのか。自問自答し、苦しんだ。昨夜、夜中に起き出して、祈り続けた。
そして聖書を読み、その御言葉の中に、自分の今の状態を見た。そうしている内に、自然と答えは出て来た。それが、一昨日引用した聖句だ。
昨日は朝一番で、わたしが結果的に騙し迷惑を掛けようとした人に会い、そのことを話した。
彼はそうしたわたしがしたことを知る由もなく、私の話に驚いて戸惑っていたが、受け入れてくれた。
それはそうだろう。いきなり分けもなく謝られて、おまけに金まで返してくれると言うことだから。
今回のことは、むしろ彼との問題ではなく、自分自身の問題であり、わたしと神の問題なのだ。
それをこの告白、謝罪で修復したのだ。
この告白、謝罪は公に自分の罪をさらけ出すことである。これを悔い改めと言う。
これを行った瞬間に、それまで重しのようにわたしにのしかかっていた
ネガチィブな感情が一瞬にして吹き飛んだのを感じた。
暗い闇のカーテンが開け放たれ明るく光に心が満たされるのを感じた。
もはや、わたしはこの罪を背負うことなく、何の心配も怖れも思い煩いも感じずに歩くことが出来る。
「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むのなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。」
ヨハネの手紙1章6節
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めて下さいます。」
ヨハネの手紙1章9節
ところで今こうして振り返ると、これらのことはすべて神が
導いていることを知るのである。
そして、これこそ神のわたしへ与えてくれる恵みであることに気付くのである。
つまり五十九の年を始めて行くにあたり、本来罪の固まりであるわたしを神はひとつひとつ洗い流し、そして清い体にし、私を彼の御国に向かい入れてくださるべく準備をして下さっていることだろうと想う。
その御国に入る為にわたしにはこれからもまだまだ己の醜さ、罪を見せつけられ、それと対峙して行く試練を与えられるだろう。
御国の門は近し、しかしまだまだ遠し、そんな想いでいる。
昨日はその門に近付く、大きな勝利を治めた一日だと言える。
ところでわたしは昨日の出来事について多くの友にも送ったのだが、その中の一人から、
横浜さん、
なんかあったんですか???
と言う連絡が入った。
それに対して、わたしは下記のように返事をした。
御気遣い、ありがとう御座います。
人間は罪人(特にわたしは)、そうした自分の罪を見せつけられたのです。
わたしは日頃、自分と神との経験を伝えて行きたいと想っているのですが、その為
に
皆さんのメールにもそうした想いを織り込んでいるつもりです。
つまり神がいかにわたしをし祝福しているかと言うことを。それを証しと言いま
す。
今回のこうしたわたしのストラグルを赤裸々に告白するのはどうかとも想ったので
す
が、特にこうした悩みの方がインパクトがあると想いそれを正直に書いたものを送った次第で
す。
でも心配なく。
神はすべてを洗い流してくださいました。
それを証しとして、明日のメールで送りましょう。
このメールの通り、わたしは自分との神との経験と神がいかにわたしを祝福しているかと言うことをわたしの証しとして述べ伝えて行きたいと想います。
ある意味でわたしの行為は押しつけがましく、恥も外見もない行為に映るかもしれません。
しかし愛するものを愛すると言い、美しいものを美しいと言う、その行為に何の躊躇がいるものか。そう思うのです。
よしんば石を投げられようとも、わたしはやめることは出来ません。何故なら、それはもはや神が私を選び与えて下さったわたしのミッションであり、神とわたしの交わした契約でもあるのだから。
岩崎さんから冗談まじりに横浜神父と言うメールを頂きますが、私はこの言葉を先生とか師匠と呼ばれるより嬉しく想います。
皆が冗談ではなく本当に神父と呼んでくださる日が来るのを、本気で夢見ている今日この頃です。
「あなたは幸せな人だ。」そんな声が聞こえて来ます。その通り、私ほど幸せな人はいないでしょう。神にこれほど愛されると想い、神に選ばれたとの確信を持っているのだから。ところで、確信と自信は違う。自信は己のうちから来るものであるが、確信は神から来るものである。
その確信のもとで、私は行動し生きている。それほど幸せで力づよいことがあろうか
アーメン。